いなべ市|情報誌「Link」2015年8月号(vol.140)
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戦没者の慰霊碑いなべ市長 日沖 靖 私の母の叔父は沖縄で戦死しています。享年26才。地形が変わるほどの艦砲射撃に火炎放射器を使った掃討戦。遺骨はおろか、遺品も戻っていません。高等商業を卒業し、中国の華北交通に就職が決まっての招集。もしも、陸軍に入隊していなくても日本に無事帰ることは難しかったかもしれません。日本人の戦没者は310万人、犠牲となられたご英霊に謹んで哀悼の意を申し上げます。 ところで、戦後、戦没者の慰霊碑が各地に建てられ、今日まで適切に管理されてきました。個人で建てられたものは相続された方が、自治会で建てられたものは、各自治会や地域の遺族会の皆さんのご奉仕で管理されています。心より感謝を申し上げます。しかし、戦後70年、遺族の方も高齢化し、慰霊碑の管理が年々難しくなっています。戦争の記憶を風化させないためにも、持続可能な管理のあり方が求められています。石榑の忠魂碑市長コラム 戦争の記憶が薄れていく中、心に刻んでおかなければならないこと。 戦後70年の節目に家族や仲間と戦争や平和について話をする機会を作っていただければと思います。 子どもたちの笑顔を絶やさないために。◀員弁東保育園の園児たち父の声を聞いてみたい片山 正子さん 74歳 (北勢町其原) 昭和18年11月、父善吾さんは出兵しました。終戦を迎えても善吾さんの安否がわかりませんでしたが、昭和19年8月にビルマで戦死していたことを、家族は終戦から2年後に手紙により知りました。 一昨年に他界した母ためをさんは、日雇いの仕事などで家族を養い、2人の娘を大事に育てました。晩年は過去を振り返り、「難儀したな」とよく話していたそうです。 3歳で父親を亡くした正子さんの父への想いと平和への願いです。「父の記憶はありません。でも、どんな人だったのかな、どんな声だったのかと考えます。戦争遺児は二度と作らないでほしいです」語り継ぐ70年戦争があった時72015.8 Link

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