いなべ市|情報誌「Link」2015年8月号(vol.140)
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 三重師範学校(現在の三重大学)を卒業し、桑名市立修徳小学校で1年間勤務後、昭和18年4月、広島県の大竹海兵団に師範徴兵として入団しました。師範徴兵は4つの戦艦、大和、扶桑、伊勢、日向に分かれ配属となりましたが、茂樹さんは戦艦伊勢の乗組員となり、火薬庫長としてフィリピン沖海戦に赴きました。火薬庫は船の底にあったため、海上で何が行われているかは伝わらず、船が浮いているのか沈んでいるのかさえわからない状態だったそうです。怖い思いを幾度となくしましたが、生きて帰りたいとは思わず、いつでも死ぬ覚悟ができていたそうです。 昭和19年10月、伊勢は大和と共に戦地を目指しますが、戦況が厳しくなり、戦闘機を運ぶ伊勢には、載せる戦闘機がないため、広島に帰港しました。 その後、茂樹さんは大竹海兵団の教官として、若い兵士達の教育を行いました。爆撃を受けた梵鐘 戦局の悪化と物資の不足のため、武器を作る材料として、鉄や銅で作られた金属の製品が軍に供出されました。 藤原町上相場の福楽寺の梵鐘(写真1)も四日市の工場に運ばれましたが、工場が空襲で焼かれたため、溶かされずに福楽寺に戻りました。 供出時に付けられた番号(写真2)や爆撃を受けた穴(写真3)が当時の様子を伝えています。参考文献:三重の戦争遺跡 増補改訂版 編集 三重県歴史教育者協議会 ㈱つむぎ出版発行 2戦争はもう絶対起こったらあかん岡本 茂樹さん 93歳 (北勢町其原) 昭和20年8月6日、よく晴れた朝、練兵所にいると、閃光が走った後、ものすごい爆風を受けました。その後、煙が大空を覆って真っ黒になり、その煙の中に太陽だけがくっきり浮かび上がっていたことを忘れません。広島市の方を見ると火の海でした。海兵団の中では日本が開発した新型爆弾を誤って爆発させてしまったと噂になりましたが、後に、アメリカが開発した原子爆弾だったことがわかったそうです。 2、3日後、軍の命令で広島市に救助に向かいました。現地はひどい焼野原でした。被爆し、火傷を負った人が水を求めて川に来て亡くなったため、おびただしい数の死体が流され、すでに救助もできない状態でした。 日本は負けないと思っていましたが、あまりの悲惨な光景にもう終戦は早いなと実感したそうです。 8月15日、兵舎の中で玉音放送をみんなで静かに聞きました。広島の光景を見ていたので、やっと終わったという思いでした。 戦後、弟耕作さんの戦死の知らせを受けても、母つたさんは我が子の死を信じることができず、「いつか帰ってくるだろう」と願って毎日、麻生田駅に通っていました。茂樹さんはそんな母の姿を見るのがとてもつらかったそうです。力強い声で「戦争はもう絶対起こったらあかん」と茂樹さんは話しました。1362015.8 Link

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