いなべ市|情報誌「Link」2015年8月号(vol.140)
5/20
昭和18年1月、21歳の時に出征し、駆逐艦島風の乗員となり、昭和19年2月に、戦艦大和の機銃兵となった正信さん、戦艦大和の最期を知る人です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昭和19年9月、レイテ海戦の帰りに私が所属する機銃分隊は船室に呼ばれて、川崎勝己少佐より、「戦況が厳しくなってきた。覚悟せよ」と伝えられました。いつかはそうなるだろうと覚悟はしていました。 そして、昭和20年4月5日にその時は来ました。日本の敗戦は決定的となり、ついに大和に沖縄特攻突入作戦の命令が出されたのです。 4月6日、艦長以下全員が前甲板に集合し、副艦長能村次郎大佐からの訓示の後、国歌を斉唱。「日本の悠久と永久に栄えあれ」と全員が涙を流し、互いに健闘を誓い合いました。そして、山口県三田尻沖より帰ることのない出撃となりました。 4月7日午前9時頃、沖に出て、敵のマーチン飛行艇を発見。大和の出撃に気付かれました。「戦闘準備せよ」と艦内放送があり、大和の対空砲火が一斉に火を吹きました。しかし、大和はアメリカの攻撃機からの波状攻撃にはとてもかないませんでした。次から戦艦大和の最期渡邉 正信さん 93歳 (大安町石榑東) 次への爆撃魚雷で大きな損傷を受け、3時間ほどの戦いで次第に艦体は左に傾斜。艦長から「退艦せよ」と命令が出ました。腰まで水が来た時には怖さのあまり、思わず「お母さん」と声が出ましたが、もう涙は出ませんでした。艦体が半分傾いたとき、私は海の上に浮いていました。その時、3番砲塔の火薬庫が大爆発、真っ赤な鉄の塊が降ってきました。どうにか火の粉は免れましたが、大和は海の中に沈み始め、大和が沈む大きな渦とともに、私は真っ暗な海の中に吸い込まれました。とても苦しく早く死のうと海水を飲めるだけ飲み、やがて気を失いました。 気付いた時は海面に浮いていました。木材につかまり、生きようか死のうか1、2時間迷った後、駆逐艦冬月に救助されました。多分、夕方6時頃でした。船に上がる体力がなく力尽きた人もたくさん見ました。 助かった時、うれしいとは思いませんでした。恥ずかしいという想いです。今でも生き残って良かったという想いと大和とともに死んだ方がよかったかという想いは半分半分。えらそうな顔はできません。あの時を思い出すと胸がつかえます。戦争というものはむごいものです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 戦艦大和の乗組員は3332人。内3000人を超える尊い命が亡くなりました。 「日本が平和に暮らして行けますように」正信さんの心の奥底からにじみ出る想いです。1.21歳頃の正信さん 2.海軍に入隊時の証書 3.正信さんの友人石岡渉さんが描いた大和。全長263m。とても美しい船だったという語り継ぐ70年戦争があった時13252015.8 Link
元のページ